うめ(写真、文:宮田昌彦)
- 2012年 2月 21日
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2012年 2月 の記事
写真は本当がそこにあり初めて写る。何もないところから生み出すものではない。その写す物(被写体)は三次元だ。写真は平面になる。しかしそれはまるでそのモノが写る。が、しかし本物ではない。最近デジタル写真自体が偽物のように疑われているが、写真自体が色々な媒体を経て存在している。リアルな表現で写真に置き換わっても本物は残らない。(プリントの画像を維持することは非常に難しい事も含め)写真自体の平面も危うい存在だ。そんな写真が私はいとおしいのは何故だ。全てのものは永遠ではない。少しでも残したい。そのような狭間で写真はかなり危うい表現方法の一つだと感じる。和紙に描く墨の絵などに比べれば尚更だ。いっそ危ういならば、その表現もあやうくするのもあるかもしれない。※写真は本文とは多少、関係ありません・・・?
大学で新しく写真映像論Ⅱ、Ⅲという授業を受け持つことになり色々な資料を集め自宅で読んでいます。友人に最近もらった本の中に株式会社窓社発行 フォトプレ 008号の最終ページで石川文洋「写真は人生そのものだった」と言うインタビュー記事があり写真(戦場の1シーン※砲弾にに打たれた相手兵士の亡骸を処理している写真)が掲載されていました。私の14歳になる娘が「とうさん、戦争写真でも写さなくてもいいものがあるのじゃないの?」「忘れようと思って、でも怖いもの見たさでもう一度よく見て・・・頭に焼き付いた。忘れられない。モノクロだったからまだましだけど」と。その映像のインパクトは私の脳にも焼きついて、再び頭の中で画像を結び時々に現れます。戦場カメラマンなんて言葉が今独り歩きしていますが、その戦争写真の持つインパクトは【自分の意志とは関係なく脳で再生される】もの。何かを考えさせられる事につながるような気がし、やはり必要なものだと思いました。(文:宮田昌彦)
琵琶湖最大の島、沖島。
車が一台もなく、本当に静かな島です。
朝に島に入ったのですが、なんとお昼まで島民の方と出会ったのは、
ほんの二、三人。
お昼になると、漁からぞくぞく船が帰ってきて、島に活気が戻ってきました。
島に約5時間ほど滞在しましたが、元気よく遊ぶ子供にはとうとう出会えませんでした。
島のおばあちゃんに話を聞くと、「島には幼稚園と小学校はあるけど、中学に上がると
みんな本土の中学にいってしまうんやわ。だから島にはわたしらじいちゃんばあちゃん
ばっかりや 笑」
若い人はどんどん離れて行ってしまう現実はありますが、みんなそこで楽しそうに
自分らしく日々生きているのが伝わってきました。
そうスローな毎日を!